ご自身の印鑑をつくる前に、知っておいて損のない、印章の雑学を是非ご一読ください。
江戸時代、福岡県は博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で、農夫によって発見されたとされる金印は、そのつくりや寸法、彼の地の時代背景、中国の歴史書による裏づけなどから、約2千年前に、後漢の皇帝、光武帝が「倭奴国王」に下賜した「印綬」、日本最古の君主印であると認識されています。 とはいえ、これが実用されたとの文献はなく、国内で印章が重要な役割を担いはじめたのは、「大化の改新(645年)」の頃以降。律令制下、作成された公文書の承認に、公印(=官印)の押印が不可欠となったためでしょう。
天皇の公印「天皇御璽(てんのうぎょじ)」も、7〜8世紀頃につくられたといわれています。印鑑社会日本の幕開けといっても良いでしょう。 他に、律令制下では、最高国家機関である太政官の官印や、各省の官署で用いられる諸司印、諸国それぞれが有する諸国印などがあったようです。
左は「晴信」すなわち武田信玄の印です。武将の印には、このように縁が二重になっているものもよく見うけられます。 信玄の印は、字法が拙劣な上、文字が円内に小さく固まってしまっており、見栄えはよくありません。信玄が山国に閉塞して、天下統一を果たせなかった有様を象徴しているかのようですね。
他の武将とは趣を異にした独自の印を用いたのが上杉謙信。 右から「阿弥陀」「日天」「辨財天」と仏語が彫られ、謙信の神仏崇拝思想が色濃く反映されています。
「天下布武」とあるのは、ご存知織田信長の印です。 こののち、縁を三重にしたもの、竜の形にしたものと、合わせて3種つくったようですが、いずれも感心できない形象、印文配置で、これらの印が、天下統一を目前に倒れた信長の悲運を招いてしまったのかも知れません。
右は豊臣秀吉が用いたとされる鋳銅印の印影です。中央に「関白」とあり、右に「寿比南山」、左に「福如東海」とあります。秀吉が左右の吉語を好み、この印を大そう気に入って使用していたといわれますが、押印文書は発見されていないようです。
徳川家康が最初に用いた印には「福徳」の二文字が彫刻されています。泰平の世を築くのにふさわしい印文といえるでしょう。文字の配置も円内に充実しており、字法も良相です。信玄の印と違って、外側の縁が細いのも、印相の上で良しとされるところです。